2022年4月17日
主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋 宏幸
「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」と、福音書にあります。婦人たちがお墓へと急いだのは、今は亡き過去の方となった、そして、それ以外には考えようのないイエス様の葬りの備えのためでした。ところが、そこにあるはずのご遺体が見つからず途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人が現れ、言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と。婦人たちはイエス様の言葉を思い出しますが、簡単にはイエス様の甦りを信じることはできなかったことでしょう。
けれども婦人たちは、「ここにはおられない」という言葉を受けてあちこち探し回りはせず、反対に「ここ」だけに注目して「イエス様が消えた、ご遺体が無い」と騒ぎ立てもしませんでした。もしそうしていたなら、「結局は甦りなどあり得ないことだ」で終わってしまったことでしょう。しかし、婦人たちはイエス様の言葉を思い出し、イエス様の言葉に心を添わせ、自らをコミットさせました。
さらに、福音書はこうも書き残しました。「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と。そのお告げを聞いた婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、天使の「お目にかかれる」という言葉を心に深く刻み込んで弟子たちに知らせるために走って行きました。ともすると、どのように甦えられたのかというほうに関心が向きがちですが、本当に大切なことはイエス様にお目にかかる、それ以上にイエス様のほうから出会ってくださるということです。しかも、お目にかかるとはちらっと見たとか、通りすがりに見たのではなく、相見えた、しっかり向き合い始めたということです。福音書に登場する多くの人たちは、イエス様に向き合い、向き合っていただくことを通して人生に大きな転換が起こったり、神様に造られ、いのちの息吹を注ぎ込まれた本来の自分を取り戻したりしました。
また、福音書は「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる」と、今も私たちに伝えてくれています。そのガリラヤとは、かつて弟子たちがイエス様に出会い、イエス様から出会っていただき、お召しに与り、神様のいのちの内に第一歩を踏み出した所であり原点であり、今度は甦りのイエス様との出会いが備えられ、待ち受けている所です。このガリラヤに例えられる原点は私たちにも備えられています。不安の絶えない世の中ですが、甦りの恵みと力に与り、日々新たに歩み続けていくことができるよう祈り合いたいと思います。
また、ウクライナでの悲惨な状況に置かれている方がた、未だ不安の拭えないコロナウイルス感染症に苦しむ方がた、医療に献身、従事しておられる方がたのために祈り続けます。
神様の御恩寵の内に、主イエス・キリストの甦りの時を迎えられますように。
(東京教区HPより転載)